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春の終わりを迎えた王都アルヴェリアは、朝から雨だった。
石畳を濡らす雨音を聞きながら、リリア・エヴァレットは診療所の棚に薬瓶を並べていた。 乾燥させた月見草。 止血用の赤根草。 熱冷ましの白花樹皮。 薬草独特の青臭い匂いが室内を満たしている。「リリア先生ー!」
入口の扉が勢いよく開いた。
飛び込んできたのは七歳くらいの少年だった。 ズボンの膝が破れ、泥だらけになっている。「ああ、トーマス。また転んだの?」
「ころんでない! 戦った!」 「何と?」 「階段!」 「階段が勝ったみたいね」少年がむっと頬を膨らませる。
リリアは思わず笑った。「見せて」
膝を確認する。
擦り傷。 大した怪我ではない。「少し染みるわよ」
薬を塗る。
「うわっ、いたっ」
「我慢」 「リリア先生、冷たい!」 「薬師は優しくないの」 「うそだ!」 「はい終わり」包帯を巻く。
少年は足を動かし、嬉しそうに笑った。「ありがとう!」
「次は階段に負けないで」 「今度は勝つ!」元気よく飛び出していく。
それを見送り、リリアは小さく息を吐いた。「……元気ね」
「お前が甘やかすからだ」奥から低い声が聞こえる。
白髪混じりの老人。 診療所の主、医師のエドガーだ。 「甘やかしてません」 「甘やかしてる」 「してません」 「してる」 「子供みたいな喧嘩やめません?」 「お前が始めた」いつものやり取りだった。
リリアが十六の頃から働いている診療所。 没落した伯爵家の娘が生活のために働くなど、本来なら許されない。 けれどエヴァレット家には、もはや体面を守る余裕などなかった。 父は病で亡くなった。 母も三年前に。 残った屋敷は広いだけの古い建物。 使用人は一人もいない。 爵位だけが残った、空っぽの貴族。 それが今のエヴァレット家だった。「そういえば」
薬草を刻みながらエドガーが言った。
「借金の返済はどうした」
「……聞きます?」 「聞く」 「聞かないでください」 「いくらだ」 「銀貨六十枚」 「増えたな」 「増えました」胃が痛い。
屋敷の修繕。 薬の仕入れ。 税金。 生きるだけで金が消える。「嫁に行くか」
「嫌です」 即答だった。「金持ちの男を捕まえろ」
「嫌です」 「顔は悪くない」 「褒めてるんですかそれ」 「性格は少し問題だが」 「帰りますよ」 「ここがお前の職場だ」リリアはため息をついた。
そんな簡単な話なら苦労しない。 それに。「……誰かに養ってもらう人生なんて嫌です」
ぽつりと漏らした言葉。
エドガーは何も言わなかった。 しばらく沈黙が落ちる。 雨音だけが響く。 その時。 外から馬の足音が聞こえた。 止まる。 複数。 しかも高級馬車。 こんな平民街に来るような代物ではない。「……誰かしら」
扉が開く。
入ってきたのは黒い軍服を着た男たち。 王国騎士団。 胸元に刻まれた銀の紋章。 空気が張り詰める。 先頭の男が口を開いた。「リリア・エヴァレット伯爵令嬢」
「……はい」 「王命です」王命――
その言葉だけで背筋が冷える。 男は羊皮紙を差し出した。 赤い封蝋。 王家の紋章。 嫌な予感がした。 ひどく。 嫌な予感が。 封を切る。 読む。 そして。 数秒後。「…………は?」
人生で最も間抜けな声が出た。
もう一度読む。 読み間違いかもしれない。 いや。 何度読んでも同じだった。『リリア・エヴァレットを、北方公爵レオン・ヴァルハルトとの婚約者と定める』
沈黙。
長い沈黙。「……え?」
「正式な王命です」 「いや」 「明日、公爵邸へ」 「いやいやいや」 「拒否権はありません」 「待ってください」頭が追いつかない。
北方公爵。 レオン・ヴァルハルト。 銀狼公爵。 王国最強。 戦争の英雄。 そして――最も恐れられる男。
「……私、何か悪いことしました?」
騎士は無表情だった。
「詳細は公爵閣下より直接」
「いや意味が分からな――」 「明日の朝、迎えが来ます」言うだけ言って騎士たちは帰っていった。
雨音だけが残る。 静かだった。 あまりにも。 静かすぎた。「……夢?」
「現実だな」 「いや」 「現実だ」 「夢ですよね」 「現実だ」 「帰ります」 「だからここがお前の職場だ」リリアは椅子へ座った。
力が抜ける。 銀狼公爵。 レオン・ヴァルハルト。 知らない人間はいない。 北の魔物討伐を一人で覆した英雄。 氷のように冷酷。 敵には容赦がない。 感情がない。 笑わない。 近づけば殺気で震える。 社交界ではそんな噂ばかり聞く。「……なんで」
理解できない。
没落伯爵家。 借金まみれ。 平民街で働く令嬢。 釣り合うはずがない。「エドガー先生」
「なんだ」 「私、死ぬんでしょうか」 「まだ結婚もしてないだろう」 「結婚したら死ぬかも」 「英雄に失礼だぞ」 「怖いんですよ!」叫んだ。
心臓がうるさい。 なぜ。 どうして。 意味が分からない。その夜。
家へ戻っても眠れなかった。古い屋敷。
誰もいない食卓。 冷めたスープ。 静かな部屋。 ベッドへ入る。 眠れない。 考えてしまう。銀狼公爵。
英雄――
冷酷――
結婚――
王命――
嫌だ!
怖い!
嫌だ!?
窓の外。
雨はまだ降っていた。 眠れないまま夜が更ける。 知らなかった。 明日。 その男と出会うことで、自分の人生が、運命ごと変わってしまうことを。そして、誰より孤独な英雄が、静かに壊れていく最中だったことを。
求婚から一週間が過ぎた頃、公爵邸には、これまでとはまったく種類の違う慌ただしさが訪れていた。 黒霧が現れたわけでもなければ、王宮から緊急の命令が届いたわけでもない。もちろん深淵が暴れたわけでも、忘却の海から異変の知らせが届いたわけでもなかった。それでも朝から使用人たちは屋敷中を行き交い、応接室では書類が積み上がり、廊下では仕立て職人や料理人、庭師たちが忙しそうに打ち合わせを続けている。 その原因は、三か月後に予定されているリリアとレオンの婚礼だった。「ですから、招待状の封蝋はヴァルハルト公爵家の銀狼紋で統一すべきです。正式な婚礼である以上、家格を示す意匠は外せません」「銀狼紋だけではリリア様らしさがありません。月白花の意匠も入れてください」「公爵家の正式文書ですので、あまり装飾を増やすのは――」「格式だけで結婚するわけではないでしょう!」 朝から応接室では、グレイとミアが真剣な顔で招待状の意匠について議論していた。 大きなテーブルの上には十種類を超える見本が並べられており、銀狼、月、花、星、夜空といった意匠が、それぞれ少しずつ違う組み合わせで配置されている。その横の机には衣装用の布地や宝石、食器、装花の候補、引き出物の見本、料理の献立まで置かれ、さらに壁際には、いつ誰が用意したのか分からないほど巨大な婚礼準備表まで立てかけられていた。 部屋の入口に立ったリリアは、その光景をしばらく眺めた後、思わず隣のレオンへ顔を向けた。「……戦争の作戦会議みたいですね」「王宮地下へ潜る時より複雑に見える」「私もそう思います」「聞こえておりますよ」 グレイが振り返り、いつも通りの冷静な表情でレオンへ一礼した。「旦那様、本日はまず招待状の意匠を――」「まだ旦那様ではない」 レオンが即座に訂正すると、グレイは一瞬も表情を崩さなかった。「失礼いたしました。未来の旦那様」「それもやめろ」「では、いつも通り閣下とお呼びいたします」
白月塔の最上階に開かれていた光の扉が、少しずつ細くなっていく。 その向こうに最後まで見えていたのは、かつて忘却の海と呼ばれていた場所だった。 誰にも迎えられず、名前を失い、帰る場所さえなくした無数の記憶が沈んでいた黒い海は、もう以前の姿をしていない。水面を覆っていた闇は静かな大地へ変わり始め、その上には月白花によく似た白い花が咲き、深い藍色の夜空には無数の星が浮かんでいた。 そして庭の中央では、小さな姿をしたメモリアが、離れていこうとするリリアたちを見つめている。『リリア』 呼ばれて、リリアは扉をくぐる直前に振り返った。「はい」『また来る?』 その問いには、名前を得たばかりの存在が抱える不安が滲んでいた。 メモリアにとって、忘れられることは存在を失うこととほとんど同じ意味を持っていたのだろう。長い時間、誰にも名前を呼ばれず、帰る場所をなくした記憶たちと共にいたからこそ、誰かが自分のもとを去っていくことを、まだ素直に受け入れきれないのかもしれない。 リリアはそんなメモリアへ向けて、できるだけ安心させるように微笑んだ。「もちろんです。また来ます」『忘れない?』 その言葉に、リリアは一瞬だけ迷った。 以前なら、きっと「忘れない」と答えただろう。 大切なものを守るためには、何一つ失ってはいけないと思っていたし、忘れることそのものが裏切りのように感じられていた。 けれど今は、少し違う。「もしかしたら、忘れることはあるかもしれません」 メモリアの表情がたちまち曇ったため、リリアは慌てずに続きを口にした。「でも、もし忘れてしまったら、その時はまた思い出しに来ます。忘れないことだけが大切なんじゃなくて、忘れたあとでもう一度見つけることの方が大切な時もあるって、私たちはここで教えてもらいましたから」 メモリアはしばらく何も言わなかった。 やがて、その小さな顔にほんの少しだけ安堵が浮かぶ。『分かった。待っている』 そ
黒い波は、もはや海というより巨大な壁だった。 リリアとレオンの前で空を覆い尽くすほど高く盛り上がったその波の中には、数え切れないほどの声と記憶が混ざり合っている。誰にも名前を呼ばれず、思い出されることもなく、帰る場所を失ったまま長い時間を漂い続けてきたものたちが、怒りと悲しみを抱えて二人へ押し寄せていた。「リリア、本当に戦わないのか」 レオンは剣を構えたまま、視線だけを彼女へ向けた。刃の上には銀色と藍色の光が重なり、迫り来る黒い海を迎え撃てるだけの力が満ちている。「はい。少なくとも、最初から斬るつもりはありません」 答えながらも、リリアの身体は僅かに震えていた。 目の前の光景だけを見れば、逃げ出したいと思うのが当然だった。波に呑まれれば自分がどうなるのか分からず、月華の力でさえ耐えられる保証はない。 それでも、耳に届いてくるものを無視することができなかった。『お母さん』『帰りたい』『寒い』『痛い』『僕の名前を、忘れないで』 それは敵が発する声ではなかった。 ずっと誰かに聞いてほしかった人たちの声だった。「この人たちは、私たちを傷つけたいだけじゃないんです」 リリアは胸元へ手を当てた。「ずっと誰かに聞いてほしかったんだと思います。自分がいたことを、知ってほしかったんです」「それでも、お前を呑み込もうとしていることは変わらない」「分かっています」「なら――」「だからこそ、もう一人で全部受け取ろうとはしません」 リリアはレオンの手を取った。 その言葉に、レオンの瞳が僅かに揺れる。「話は聞きます。でも、全部を私の中へ入れるんじゃなくて、この人たちがそれぞれの記憶のままでいられる場所を作ります」「そんなことができるのか」「分かりません。でも、やってみます」 以前の自分なら、きっと「できます」と言い切っていただろう。 誰かを救うた
最初に感じたのは、骨の奥まで染み込んでくるような冷たさだった。 忘却の海へ落ちたはずなのに、服も髪も濡れてはいない。それでも身体の芯から熱だけを奪われていくような感覚があり、リリアは重い瞼をゆっくりと開いた。 目の前には、どこまでも黒い海が広がっていた。 空と水平線の境界すら分からず、上下も遠近も闇の中へ溶けている。その中で唯一はっきりと見えるのは、海面に浮かぶ無数の淡い光だった。 星のようにも見えるそれらは、よく目を凝らせば一つずつ違う揺らぎ方をしている。 誰かの名前。 誰かの声。 誰かが確かに生きていたという証。 そんなものが光となり、黒い波に揺られながら、少しずつ海の底へ沈んでいく。「……レオン様」 リリアは身体を起こしながら呼びかけた。 返事はない。 胸の奥が急速に冷えていく。「レオン様!」 今度はもっと大きな声で呼んだものの、返ってくるのは遠い波音だけだった。 第一王子も、ノクスもいない。 忘却の海へ呑み込まれた瞬間、全員が別々の場所へ引き離されたのだろう。 そして、最後に見たレオンの顔が脳裏へ蘇る。『誰だ』 たった一言だった。 けれど、その言葉は胸の奥へ深く刺さったまま抜けない。 忘却の力によって記憶を奪われただけだということは分かっている。レオンが自分の意思でリリアを忘れたわけではなく、まして彼の想いが嘘だったわけでもない。 それでも怖かった。 今までは、自分が忘れる側だった。 記憶を失いかけるたびに、レオンが名前を呼び、自分が誰なのかを教えてくれた。 戻ってこいと手を伸ばしてくれた。 けれど今度は、レオンが忘れた。 ならば、自分がしなければならないことは一つしかない。「今度は、私が呼ぶ番ですね」 リリアは自分の胸元へ手を当て、そう呟いた。 その
「次の敵は、私たちの記憶を消しに来る」 王宮西棟の病室でセドリックがそう告げたのは、まだ夜が明ける前のことだった。 第一王子から緊急の知らせを受け、公爵邸にいたリリアとレオンが急ぎ王宮へ戻った頃には、東の空がようやく白み始めていたが、王都に広がっている異変は夜明けとは正反対の不気味さを帯びていた。 馬車が王宮へ向かう大通りへ差しかかった時、リリアは窓の外から聞こえてきた声に思わず顔を上げた。「……すまないが、名前をもう一度教えてくれないか」 道端の店先で、年配の男性が妻らしい女性を見つめていた。 彼はひどく困惑した表情を浮かべている。「顔は分かるんだ。大切な人だってことも分かっている。それなのに、名前だけがどうしても出てこない」 男性の唇が震えた。 女性は泣きそうな顔になりながらも、懸命に笑ってみせた。「マリアよ」「……そうだ、マリア」 名前を口にした瞬間、男性の目から涙が落ちた。「忘れたら、また言ってくれるか」「何度でも言うわ」「ああ」「何度忘れても、何度でも」 馬車はその二人の前をゆっくり通り過ぎていった。 リリアは胸元へ手を当てた。「もう始まっていますね」「ああ」 隣に座るレオンの声も硬い。 今朝だけで、同じような報告がすでに何件も上がっていた。 人の名前だけを忘れた者。 昨日の出来事だけが抜け落ちた者。 逆に、自分ではない誰かの記憶を夢として見た者。 まだ王都全域を覆うほど大規模ではない。 それでも、忘却の海が確実にこちら側の世界へ影響を及ぼし始めている。 レオンの足元で影が揺れ、小さな夜色の姿をしたノクスが顔を出した。『まだ浅い』「何がですか」『忘却との接続だ』 ノクスは黄金色の瞳で窓の外を見
決戦から七日が過ぎた朝。 王宮西棟の一室では、一人の罪人が名前を読み続けていた。「エドガー・ハインツ」 掠れた声が、静かな部屋へ落ちる。「北方第三鉱山、運搬員」 紙をめくる。「妻と、二人の子供……」 セドリックはそこで言葉を止めた。 名簿には、亡くなった者の名前だけではなく。 年齢。 職業。 家族。 行方不明になった日。 遺体が発見された場所。 判明している限りの情報が記されている。 最初は、名前だけを覚えるつもりだった。 けれど、名前の横に記された短い一文を読むたび。 その者がただの数字ではなかったことを思い知らされる。 エドガー・ハインツ。 三十九歳。 妻と子供を養うため。 冬の間も鉱山へ入り続けていた男。 黒鴉会の者たちに拉致され。 術式の実験体として王都へ送られた。 帰りを待っていた家族へ。 遺体すら返らなかった。 セドリックは震える指で、紙の端を掴む。「……次を」 向かいに立つ記録官が戸惑う。「殿下」「次を読め」「しかし、すでに二刻以上」「読め!」 声を荒らげた瞬間。 胸に激痛が走った。「ぐっ……!」 セドリックは身体を折り曲げる。 包帯の下。 胸元に残る黒い亀裂が明滅する。 記録官が慌てて医師を呼ぼうとする。「呼ぶな」「ですが」「この程度で止めれば」 息を切らしながら。 セドリックは名簿を見る。「私はまた、逃げる」「殿下はまだ治療中です」「だから何だ」「倒れてしまえば、裁判へも」「倒れれば起こせ」







